グラビティ・ゼロ







 なんやこれ頭めっちゃ痛重い。

 寝返りを打とうにも体の節々がじわじわと痛む。
 なんやこれの答えはすぐに出た。

 風邪や。
 嘘や。

 即座に否定したくなったのも無理はない。
 白石は自身の健康状態を維持することにかけて手を抜いたことがない。
 幼い頃、金太郎とまでは言わないがそこそこやんちゃだった白石だが、
 そこらの子と同じくらいには時折風邪を引いた。
 風邪を引いて病院に連れて行かれるのが何よりも嫌だった。
 鼻に細いチューブを突っ込まれるのはまだ我慢できても、口を無理やり
 あけさせられ細い棒状の医療器具を突っ込まれて喉に直接薬を塗りたく
 られるのは我慢ならなかった。
 オエである。
 思い出すだけでオエである。つまり吐き気を催す。
 病院から帰ると、一難さってまた一難、今度は食後に薬を飲まなければ
 ならない。
 この薬がまた白石は苦手だった。
 合成着色料の塊かと疑いたくなるけばけばしい色をした液体状の薬。
 この世の苦いものすべてを粉々にしたのかと思うほどの苦い粉薬。
 こんなん飲みたない、とごねる度に、薬剤師である父親は言ったものだ。
 いわく、飲んだら治る。飲まな治らん。男なら我慢し。
 もっと薬剤師らしいことを言って欲しかったものである。
 まぁ、薬剤師らしいこととはなんぞやと言われても白石には答えようが
 ないのだが。

 とかく、白石は病院が苦手だった。
 幼い白石は考えた。病院のお世話にならないためにはどうすればいい
 のか。
 答え、病気にならない。


(その俺が風邪引くて冗談やろ!なんも風邪引くようなことしてへんし!)
(なんか変な病気ちゃうかこれ…俺が風邪ひくておかしいやん)
(やばい不治の病とかやったらどうしよ!)
(……いやいやそらないわ)


 自分のボケに自分でつっこむのはもはや大阪人のサガである。
 身体は重くとも思考は活発だ。
 ここ最近の自分の状態と活動を思い返してみてもなんら原因となりそうな
 ものを思い浮かべられない。


(つってもこれ絶対熱あんな。学校行けへんやん)


 苦労して体を起こす。
 ベッドから立ち上がるとくらりと傾いだ。節々が痛みがいっそうひどく
 なる。
 壁を伝うようにして階下に降りる。いつもなら食欲を直撃してくる
 おいしそうな朝食の匂いに興味を持てない。


「かーさん」

「どうしたん」

「しんどい」

「クーちゃんが?!あら珍しい」


 母親の反応が幼い頃に比べるとどうしても軽くて薄い。
 あの頃はしんどいと言うだけで体温を測られ熱があった日には自転車の
 後ろに乗っけられて即病院行きだった。
 今はそんな雰囲気などどこにもない。
 ソファに座ると母が体温計を出してくるので大人しく脇に挟む。


「うっそ、クーちゃんが風邪?」


 先にテーブルについて朝食を食べていた妹も母親と同じような反応だ。
 今まさに出かけようと玄関にいた父親が母に呼ばれてリビングに戻って
 くる。


「熱何度?」


 薬箱をごそごそやりながら父親が聞く。
 意外だと言われるが、白石は父親似だ。姉と妹は母親に似ている。
 父親の横顔を見て、(あー俺もこんなオッサンになるんやな)と思う。


「あーまだ……、あ、鳴った。7度5分」

「そんな高ないな。微熱や微熱」


 ほれ、と粉薬と錠剤を一種類ずつ渡された。


「それ飲んで寝とき」


 いつもなら薬の薀蓄をちょっとは講釈するくせに、よほど時間がないのか
 父親はさっさと病院へ出かけて行った。
 家族もそれぞれ動き始める。

 30分後には白石ひとりが家に取り残されていた。
 倒れこむようにベッドに横になった。
 熱くてだるい体を持て余す。
 夏休みが終わり、新学期が始まってしばらく経つ。今頃、疲れが出たの
 だろうか。


(まだ薬効かんな…)


 ぼんやりしながら仕方なしに体の向きをかえる。それだけでも関節が
 じわっと沁みこむような痛みを訴えてきた。


「あー痛っ……最悪や」


 寝るしかない。寝て起きたらちょっとはマシになっているはずだ。
 懸命に寝ようとしていると、すぐさまその努力は報われて眠りに
 引きずりこまれた。

 目が覚めたらちょっとは楽になっているはず。






「…なっとった」


 声が変な具合に掠れている。
 喉が渇いていることを急速に自覚した。
 体を起こして持ってきていたペットボトルのスポーツドリンクをがぶ飲みする。
 500mlのペットボトル1本では満足できずに2本を一気に飲み干した。
 喉を伝って体が潤う感覚に満たされる。意識も次第にはっきりしてくる。


(なんか夢みてたな俺)


 小さな背中を見ている夢。
 追いかけるでもなく、どんどん小さくなっていくその様を見ている。
 それだけの夢。


「あー……」


 背中からベッドに倒れこむ。
 衝撃で頭がくらくらした。どうやら熱はまだひいてはいないらしい。


 夢まであの子か。
 そんで追いかけられへんとか、最悪。


 自分の中に根付いている思考が影響していることは明らかだった。

 全国大会総合3位。
 決して恥ずかしい成績ではない。
 準決勝の悔しさはもう消化したつもりだ。悔いも感じているだけ無駄。
 終わったことをいくら嘆こうとも時間は戻らない。
 なのに。


(金太郎)


 あの背中はどこまで高みにのぼってゆくのだろう。
 それは予感と確信と期待が入り混じったひかりだ。


(浮いとるなーとは思っとったけど)


 金太郎はどこにいても目立つ。大声で騒ぐからとか、珍しい赤みの強い
 髪の毛のせいだとか、小さいから目を引くとか、そういうことではなくて。
 浮いている。
 飛んでいる。
 ものすごい速さで浮遊している。
 金星のスーパーローテーション。金太郎はそんなイメージだ。


(だから浮いとるんやな、あの子は)


 小さな体にまるで見合わない有り余るエネルギーを放出しながら。


(総合3位)


 銅色のメダルを首から提げて金太郎は飛び跳ねて喜んでいたけれど、残念ながら
 彼にはまったく相応しくなかった。
 文字通り金色のメダルが似合うだろうに。


(似合った、やろうなぁ)


 その時のことを思い出すと、なんとも言えない気持ちになる。
 どうにも、形容しがたい。

 コンコンコン、と部屋のドアが強めにノックされた。
 なに、と声を出すと「クーちゃん起きてる?」と母親が顔を覗かせる。
 まさか仕事を切り上げてきてくれるはずもないから午後7時を確実に回っているの
 だろう。
 時間の感覚がずれてきている。そこまで寝ているとは思わなかった。


「うわ、今何時なん?」

「8時前。それよりお見舞いに来てくれてる子がいるんやけど」

「誰?」

「金ちゃ「すぐ呼んで!」


 白石の答えを予想していたのか、母親がどうぞと促すと部屋のドアから
 ぴょこんと金太郎が顔を覗かせた。
 金太郎と入れ替わるように母親が階下へ降りていく。
 金ちゃん、あんま近寄ったらあかんよー、などと言いながら。


(おいひどないかそれ。金ちゃんも普通に返事しなや!)


 はーい、といい返事をしたはずの金太郎だが、別段悪くもないような風で
 ベッドへ近寄ってくる。
 ぺたんと座り込んでから、人差し指を口に当ててにやりと笑った。


「風邪か、白石ぃ」

「金ちゃん…」

「みんなが、鬼のかくらん、やって!」


 絶対に意味をよく分かっていない発音だった。白石は苦笑する。


「そうかもなぁ。久しぶりによう寝たわ。夢もみたし」

「へえー!どんな?ワイ出てきた?」

「出てきた出てきた」

「何してたん?テニス?」


 テニスのような、そうでないような。
 当てはまる表現を探した白石は、結局「迷子になった」とだけ言った。


「迷子ぉ?もー、白石の夢の中でまで迷子にさせんといてやー!」

「ああ、ちゃうちゃう。俺がやで」

「白石が?迷子?いつもと逆やん!」


 どうやらいつも迷子になっているという自覚だけはあるらしい。
 自覚があるのなら迷子にならないよう注意もしてほしいと思う白石である。


「せやなぁ。夢やからかな」

「じゃあ、ワイちゃんと迎えに行った?」

「え?」

「ワイが迷子になったら白石いっつも迎えに来るやん。やから」

「あー……」

「行かへんかった?あかんなー、白石の夢の中のワイは!あれちゃう、白石の
 しんそーしんりのワイがあかんからちゃう?」


 ワイやったら絶対迎えに行ったんのに。


 言われたせりふに白石はしばし固まった。


(知ってたけど!この子天然たらしやって!)


 素で、何のてらいも恥ずかしげもなく、さらっと言えてしまう。
 欲しい言葉を何でもないことのように手渡してくれる。


「迷子になったら動いたらあかんで!ワイが行くからじっとしときや」


 一人称を「俺」にすると、普段白石が金太郎に言い聞かせている文句そのままだ。


(ようするに迷子になることも、迷子になったらどうしたらええかも分かってんのに
 言うことききよらんわけやな)


 嫌な気分にはならなかった。
 不思議と笑いがこみあげてくる。


「じゃあ待たしてもらおかな」


 白石が笑いをこらえながら言うのに、金太郎は気にするでもなくむしろ当然と
 ばかりに頷いた。






───

 さらっとかっこいい金ちゃんが書きたかった話。


20120918