金星






「白石ぃー!」


 背中から元気な声が飛んできたと同時に、声の主も飛びついてきた。
 つんのめりそうになりながらも、咄嗟に出た左足で踏ん張る。


「お、わ!」

「なんやしっかりしーや白石。運動不足ちゃう?」


 あわや転倒という事故を起こしかけた張本人は、悪意のかけらもない顔をして
 しゃあしゃあと言ってのけた。
 運動不足かそうでないかと言われれば、運動不足なのは本当だろう。
 テニス部を引退してから4ヶ月。
 受験シーズン真っ只中。
 卒業まで間近。
 この時期の形容に困ることはない。


「危ないやろ!怒るで金ちゃん!」


 振り向きざま、左手の包帯をことさら強調するように見せながら白石は言った。
 ぎくりと金太郎の顔が強張った。
 そして慌てて笑顔を作ってみせる。


「わぁー!堪忍や白石ぃ。そんな怒らんといてえや」


 なー、と小首を傾げるようにしてみせて白石を覗き込んでくる。
 たち悪くなったなぁ、と白石は思う。
 可愛らしい仕草に見える、などと金太郎は微塵も思っていないだろうし、そう
 いう風に見えるのは白石に限ったことと言われればそれまでだが。


「今度から気をつけるんやで」


 可愛らしい愛想笑いに怒りを引っ込めてしまうのは負けた気分だ。
 負けることが何より嫌いな白石だが、こと恋愛においてはまた別物だと割り
 切っている。
 いわく、惚れたほうが負け。
 間違いない。


「そんで、どうしたん金ちゃん。3年の教室まで来て」


 常から騒がしい四天宝寺中学は、受験シーズンでもその騒がしさに変わりはない。
 ひときわ小さな1年生が3年生の大勢入る廊下にいたところで特に目立たないのだが。


「あんな、あんな。天体観測しよーや!」

「天体観測」


 思わず繰り返す。
 なんというか、野生児と名高い金太郎の口から出てくる言葉としては知的だなと
 失礼なことを思わずにはいられない。


「おとーさんが天体望遠鏡もーてきてん。すごいちゃちいやつやけど見れるんは
 見れるみたいやし、ワイ天体観測したいねん!」

「そうなん」

「うん!おとーさん一緒に行こやって言ったんやけど、寒いのいらんって」

「そんで、俺?」


 俺はお父さんの代わりかい。


「白石あれやろ、受験で忙しいんやろ。だから息抜きやん!気分転換やん!」

「うーん…どうしよかなぁ」

「なー、一緒に行こうやー白石ぃー」

「でもなぁ、俺一応受験生て立場やしなぁ」

「白石頭ええねんから勉強せんでも大丈夫やろー」


 なー、なー、と駄々っ子よろしく金太郎が訴えかけてくる。


「でも俺も寒いのいらんしなぁ」

「あったかいカッコしたらええやろ!おとーさんと違って白石は若いやろ!」


 ここまでねばられるとこれ以上引っ張るのも可哀想な気がしてくる。
 もとより断る気もなかった。
 頭ええから勉強せんでも大丈夫、はほぼ真実であるわけだし。


「せやなぁ、じゃあ行こか」

「やぁった!」


 ぴょーん、と金太郎が跳ねた。
 うれしいときのくせだ。
 そんな風に喜ばれると、心臓に悪い。しなくていい期待をしてしまいそうに
 なる。


「あー、じゃあ、いつする?」

「今日!」

「…えらい急やなぁ」


 白石は苦笑しながらも了承した。
 もらったばかりの天体望遠鏡を使いたくて仕方ないのだろう。
 冬の寒い時期は空気が澄んでいるから、星がキレイに見える。
 天体観測にはいい季節だ。


(そういや最近全然星なんか見てへんかったな)


 大阪の町は明るい。
 町の光りに星の煌きがかき消されることもままある。
 だからかもな、と思考を軽くせきとめた。







「うーん…くもっとるなぁ」


 これじゃ天体望遠鏡あっても星は見えへんで、とひとりごちながら白石は
 遠山家へ足を向けている。
 天気予報見れば良かった、とも思ったが、せっかくの金太郎からのお誘いを
 曇り空を理由に断るのは惜しすぎた。
 帰宅早々、準備をしてから家を飛び出してきたのだ。
 日没が早い冬の空は、早い時間から星がよく見える。

 晴れていれば。


(不毛やなぁ)


 不毛というか、滑稽というか。
 金太郎に関することになると、自分だけが浮き足立っているように思える。
 たぶん、天体観測のお誘いを白石にかけてきたことだって、彼にしてみれば
 他意などないのだろう。
 白石が思うに、金太郎の中での白石の存在は「口うるさいけど面倒見のいい
 先輩」だ。
 そして彼は白石が結局「甘い」ことを知っている。


(だから不毛やっちゅーねん)


 ただそれだけ。
 金太郎に特別な感情はない。きっと。
 それでもあえて自分に声をかけてくれたのがうれしくて、でもそれには白石が
 望むような感情など混じってはいないのだ。
 
 口元を覆ったマフラーから白いため息がふわりともれた。


「あーっ、白石!白石きたー!」


 赤のダッフルコートを着た金太郎がぴょんぴょんと飛び跳ねている。
 手に持った長方形の箱の中に天体望遠鏡が入っているのだろう。
 かたかたと軽い音を立てている。どうやら「すごくちゃちい」のは本当らしい。


「寒いやろ。家の中で待ってたらええのに」

「もーそろそろ来るやろなーって思ってんもん」

「で、それが天体望遠鏡?」

「うん」


 手に取るとやはり軽い。間違いなくプラスチック製。


「どこ見に行く?」

「どこっつっても金ちゃん、この曇りじゃなぁ。星のいっこも見えへんで」


 雲に覆われた空は、冬の夜をより暗くしていた。
 ややー、天体観測するんやー!と駄々をこねる金太郎を想像するのは
 容易だった。
 白石はどうやって宥めるかを思案していたのだが、白石の想像を裏切って
 金太郎はあっさりと首を縦に振った。


「うーん、やっぱり?」

「やっぱり、て…」

「だってすっごい曇ってるやん。おかーさんも今日は無理やーって言ってた。
 明日は雨やし絶対晴れへんって」

「じゃあ、なんで」


 当然の疑問を口にする白石を見上げて、金太郎が笑う。


「息抜き!」

「…金ちゃんの?」

「ちゃうわ。白石の!」


 散歩でもしよや、と元気よく言った金太郎が小さな背を向けて歩き出した。
 慌ててその背中を追いかける。
 ぐるぐる巻きにされているマフラーのせいか、金太郎が必要以上に小さく見えた。
 金太郎の吐く白い息が夜の道路にほわりと浮き上がる。


 金太郎の隣に並んだ。
 さり気なく歩幅を合わせてあてどなく歩いているうちに、心臓がどきりと音を立てた。
 寒いはずなのに、体がほかほかと熱くなってくる。


(これは、)


 他意がなかったわけじゃない、のかもしれない。
 金太郎が一歩先に飛び出して、くるんと振り返った。


「!」

「天体観測はまた今度、なー」


 大きな目をいたずらっぽくきらきらさせながら金太郎が言う。
 金太郎はどうしてこうも簡単にこころをつかむのか。


「せやな」


 コートのポケットにつっこんだままの手のひらを、ことさらポケットの中に
 押し込める。


「そういえば金ちゃん、星の名前知ってんの?」

「オリオンやろー、シリウスやろー、夏の大三角やろー」


 星座も星の名前も名称もごっちゃだが、金太郎の中ではすべてが「星」の
 一括りになっているようだ。


(シリウスは冬の大三角やで、金太郎)


 白石は小さく笑った。
 理科で習ったのだろう。そんな記憶が自分にもある。

 お星さん見たかったんやけどなぁ、と金太郎は言った。
 彼にしては珍しく、どこか言い訳じみて聞こえる。

 また膨らんでしまいそうな期待を押し込めるために、白石はポケットの中の
 手のひらをぎゅっと握った。爪のあとが手のひらに食い込むほど。
 金太郎が不思議そうな顔で白石を見上げて首を傾げた。


(きらきらしとんなぁ)


 ため息が出そうになる。悲嘆ではなく感嘆の。
 金太郎を構成するパーツで一番印象に残るのはその双眸だろう。
 大きな瞳が輝いている。
 まるで星だ。
 その証拠にすっかり夜の色が濃くなったこの時間でも金太郎はきらきら
 しているではないか。


「どしたん、白石」

「なんもないよ。星が出とるなぁて思とっただけ」

「星ー?どこにも出とらへんやん。白石、目ぇ悪いんちゃう?」

「そうかも」


 金太郎には見えないかもしれない。
 一番星。


(俺の)


「白石、なにニヤニヤしてんねんな」


 見上げなくてもそこにある星に手を伸ばす。
 眉を寄せている金太郎に、なんもないよ、とごまかすように髪の毛を
 撫でてやった。








───


 白石クサのすけさんですみません。
 でも金ちゃんは俺の一番星、くらいに思ってたらいいと思います。



20120518