「し、ら、い、しー!」


 いじっていた携帯電話から顔を上げると、金太郎が軽く助走をつけて
 最後の「しー!」で飛びついてくるところだった。
 後ろにひっくり返らなかったのは彼が手加減して飛びついてきたからだ。

 待ち合わせはいまや珍しい存在となった公衆電話ボックスの前。
 携帯を持っていない方の手で背中をぽんぽんたたくと金太郎は笑って
 身を離した。


「走ってきたん?」

「うん!」


 必要以上に大きく頷く仕草は、金太郎をとても幼く見せる。
 その何の計算もない可愛さが白石にはたまらない。
 ぎゅうぎゅうと抱きしめたくなるこころを押さえて、ふと気がついた
 疑問を口に出した。
 いつもなら心底面倒くさそうな顔作って金太郎に付き添う四天宝寺部長の
 姿が見当たらないのだ。


「財前は?」

「光?なんかCD屋さんに寄って帰るって」

「そうかー」


 財前の音楽好きは知れるところであったので白石は納得して頷いた。
 中学と高校に離れた今でも話題は尽きることがない。
 テニスという共通の部活、共通の仲間がいるということもあるし、
 とにかく金太郎は白石と会わなかった間のことやその日あったこと
 などをとりとめもなく話す。
 うれしかった、びっくりした、面白かった、悲しかった、とすべての
 感情つきで。
 白石は大抵聞き役だ。
 うんうん、といちいち相槌を打って話を聞いていればあっという間に
 自宅へたどり着く。

 ただいまとこんにちはの挨拶に返って来る言葉はない。
 こういう日はたまにある。
 ぽかりと自分以外の家族がいない時間。
 別に意図していたわけではないし、狙っていたわけでもないが、たまに
 あるのだ。
 金太郎を部屋に通しておいて飲み物とちょっとしたおやつを用意してから
 白石も階段を上った。
 根気よく教えると時間はかかるものの分からないところが理解できるように
 なったのがうれしいのか、最近の金太郎は真面目だ。
 今日もミニテーブルを自分から用意して教科書とノートを広げている。
 期末テストも近い。
 追試になると面倒な上テニスをする時間が減る、ということに気づいたことも
 あって一年前では考えられないほど彼は勉強に意欲的になった。
 それなら授業も熱心に受けているのかと言えばそうではないあたりが
 いかにも金太郎らしい。
 あとで白石に聞いたらいい、という金太郎の考えは咎めるべきところかも
 しれないが、頼りにされてうれしいのと、会ういい口実になるのとで
 白石は叱るでもなくだんまりを決め込んでいる。


(今日は数学か)


 ノートにちょこちょこと数字が踊っている。
 板書したものを少し写しているだけでも大進歩だ。
 しかし途中で諦めたらしく、三角形の証明はされていないままだ。

(うーん、金ちゃんにはちょっと難しいかもなぁ…)

 三角は三角やん、とか駄々をこねる様子が今から目に浮かぶ。
 めんどくさい、邪魔くさい、とは思わない。
 こつこつと何かをする、ということが嫌いではない白石である。
 どうやって教えるべきかと攻略法を考えながら金太郎の向かい側に
 腰を下ろした。
 金太郎はさっそくクッキーに手を伸ばしている。


「あっ、そうや白石!」

「んー?」

「今度光に会ったらな、ちゃんと勉強見てるって言ったってや」

「なんや、財前は金ちゃんが勉強してるて信じてへんのか」


 相変わらず意地の悪いやっちゃなー、という苦笑が、


「一体何の勉強教えてもろてんねん、って言うんやもん。勉強は勉強やって
 言ってんのに」


 ぴしりと凍りついた。


「あー……」


 そうかそうか、そうですか。
 CD屋に寄って帰る云々は口実で、意図的なものだったわけだ。
 経緯は全く分からないが(何しろ金太郎なので)、金太郎の幼馴染はどうやら
 白石と金太郎が一線を越えたことを知ったらしい。
 まずいことになったな、とは白石は思わなかった。
 バレたならバレた、それでいい。
 度量がない、心が狭い、と言われそうだが、金太郎に近しい人間ならばなおさら
 彼に惹かれるのではないかと危惧してしまう。
 財前なんてその最たるものだ。
 金太郎に対する態度は常に面倒くさそうで嫌々というポーズを隠さない財前だが、
 「隠さない」のではなく「装っている」のだとよく見れば分かる。


(そりゃショックやろな)


 財前が自分に対して抱いている感情が手に取るように分かるだけに、白石は
 またひとつ苦笑した。
 

「ワイまじめにやってんのに」


 さく、さく、とクッキーを食べながら金太郎が言う。
 いつもは豪快に食べるくせに、拗ねもあるのか今日は少しずつ齧っている。
 まるで小動物みたいな様子が微笑ましくて、白石は彼の頭をわしわしと
 撫でてやった。


「せやな、俺からもちゃんと言うたるからな」

「なんで光は信じひんのかなぁ」

「………」


 金太郎が何を言ってどういう流れで財前がその関係を知ることになったのか
 分からないだけに白石は黙るしかない。
 基本的に奔放であけっぴろげな金太郎だが、いわゆる色ごとになるとそれは
 なりを潜めてしまう。
 どうしていいのか分からないのと緊張もあって白石に任せるばかりだ。
 キスもハグも好きなのに、少しでもキスを深くすると途端に固まって普段の
 彼からは想像もつかないほど大人しくなる。
 そんな金太郎が、白石との行為を口に出すなんてことがあるはずもないのだが。

 むぅ、と金太郎がくちびるを軽くつきだしている。
 拗ねている時よくやる仕草だ。
 見ようによってはキスをねだっているように見える。
 というより、白石にはそう見える。


「なぁ、しらい、し…」


 言葉尻が奇妙に途切れたのは白石が顔を近づけたからで、慌てて目を閉じたのは
 恥ずかしかったからだろう。


「…ん、ん」

「金ちゃん、あーんてしてみ」

「ん、え?」

「口開けて。あーんて」

「ぁー…ん、んんっ!」


 こうなってくるとテーブル越しのキスもいい加減まどろっこしい。
 金太郎の息継ぎのタイミングで移動した。
 驚いてもともと大きな目を大きく見開いた金太郎が可愛くて抱きしめる。


「あ、え、えっと…、し、しらいし…」


 もごもごと口ごもる姿も珍しい。
 きっぱりはっきりものを言う金太郎がおたおたするのは、何かしでかして
 言い訳する時とこういう時くらいだ。
 両方を目にする機会があるのは白石だけだろう。


「ん?」

 さり気なく金太郎が座っていた座布団の位置をずらしながら押し倒すと
 キスで紅潮していた顔がさらに真っ赤になった。


「え、と……す、…す、る?」


 背中の後ろに座布団がある時点で確定なわけだが。
 痛くないように、という配慮が理解できるようになったのはつい最近で、
 金太郎としては恥ずかしさと照れが同時にくる。


「したい」

「う、で、でも…べんきょ…」


 まさかそんな殊勝な言葉が金太郎の口から出てくる日がこようとは
 思わなかった。
 今日はこっちの勉強が先な、と言おうとして、やめた。
 財前が気づいたことを金太郎が知れば、面倒というより都合の悪いことに
 なりそうだ。主に自分が。
 財前は意地が悪いと言ったが、自分も相当、と白石は笑った。


「うー…!」

「あ、バカにしたわけちゃうから」

「笑ったやん!」


 金太郎がぐいぐいと肩を押し返してくる。
 形ばかりの抵抗だと丸分かりだ。
 彼が本気で嫌がれば白石など壁までふっとばされている。


「金ちゃんが可愛くてー…あ、と」


 金太郎の右手をはずさせてまじまじと見つめる。
 彼の手のサイズに合わせた小さな爪がきらりと光った。
 切りそろえられたままの爪だ。
 いびつにゆがんでいない。


「おー、エライエライ。噛まへんかったんやな。ちゃんと伸びてる」

「かんだら死ぬって言うたん白石やろ!」

「そうやけど」


 毒手を信じても、まさか透明なマニキュアを毒だなんて信じるとは
 思わなかった。
 その素直さに心底感心する。


「ほんっまかわええなぁ」


 照れた金太郎がわめきながら反論してくる前に、白石はくちびるを
 ふさいでやった。


「今日は思い切り引っ掻いてもええよ」


 耳元で囁いた途端、びくりと金太郎が身を震わせた。
 ああこれは意味分かってないな、と白石は思った。
 声は聞こえていても言葉は聞き取れていないだろう。
 案の定、耳でしゃべらんといて!と抗議の声が上がる。


「はいはい」


 くちびるを耳にくっつけながら言うと、今度はぎゃあと色気のない声が
 上がった。
 仕方なしに耳から離れて金太郎の顔を覗き込む。


「伸びた分はまたあとで切ったるから」






爪きりのテヌート








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 このネタであと2つほど書きたいです。爪でどんだけ引っ張るのか。

20111110