盗んだキスと




「あ。あかん教室に忘れモンしてきてしもたわ」


 金ちゃんどうする、と尋ねる前に、「じゃーワイここで待ってる!」という
 元気のいい声が返ってきて白石を苦笑させた。
 部活のあと、いつもはおなかをすかせて一目散にたこ焼き屋か家へ一目散に
 駆けていく金太郎が部誌を書く白石を大人しく待っていたのには訳がある。
 千歳にたこ焼きをおごってもらった、とはしゃぐ金太郎に「買い食いはアカンて
 言うたやろ」と咎めてから数日、拗ねに拗ねてしょぼくれた彼に「あー分かった
 今日は俺がおごったろ」と言ってしまったのだ。
 さすがに口をきいてすらもらえないともなると、白石としても堪えがたい。
 部長自ら規律を乱してどうすんねん、という心の声は聞かないフリをした。
 だって抑え付け過ぎてもあかんしな、と弁解めいたことを考える。

(恋は男をダメにするとはほんまやなぁ)

 自らに完璧を課す白石はため息をつきたくなる。
 どうにもこうにも、これに関しては完璧とは程遠い。

 読んでいる漫画が佳境に入っているらしく、金太郎にしては珍しく待つという
 選択になったようだ。
 白石は「じゃあちょっと待っててな」と言い残し部室を出た。
 忘れ物は数学の教科書だ。
 こと学習において苦手がない白石だが、宿題が出ている上、明日は小テストとも
 なるとやはり必要だろう。

 3階の教室まで往復で10分もかからない。
 おなかを空かせている金太郎を待たすのも酷かと白石は知らず早足になった。


「ごめんな、金ちゃん。待たせて堪忍」


 金ちゃん飛びついてくるかも、と気をつけながら部室のドアを開けたものの、予想した
 衝撃はなく白石は首を傾げた。


「金ちゃん?」


 金太郎のいた位置はまったく変わりない。床に座り込んだままだ。
 変わっていたのは彼の状態で、漫画のページを開けたまますぅすぅと気持ち良さそうに
 寝息を立てている。


「かっ…」


 かわええ!!

 思わず左手で口を押さえる。
 深呼吸をひとつしてから、息を詰める。
 そっと身をかがめて金太郎に近付いた。
 ひとところに留まる、動きを長時間止める、そういうことが不得手な金太郎だから、こうして
 じっとしている彼を見る機会は少ない。
 長めの前髪が幼い寝顔に影を落としていて、普段の金太郎からは考えられないほど静かな
 子どもに見える。


(うわ、意外に睫毛長いんやなぁ。こんなじっくり見たことなかったし気づかんかった)
(ちょーかわええ……写メ撮りたい!写メ!)


 じっくり観察してしばらく、己の姿を客観的に認識するに従って情けなくなってきた白石で
 ある。
 情けない、確かに情けないのだが。


「〜〜〜!」


 欲望には勝てなかった。
 金ちゃん起きませんように!と願いながら、早く早くと携帯電話を操作する。
 カメラのシャッター音は響くが仕方ない。
 起きたらそれまで、と割り切って一枚。


「撮れた…!」


 なんて可愛いんや、待ち受けにしよ!と決めたところで、


(アカン!今の俺ただの危ないやつやんか!)


 その通り、とツッコミをくれる仲間も不在。
 いや、今いられたら困るわけだが。


「金ちゃん、起きや」


 たこ焼き食べに行くで。
 細い肩を揺さぶってみても反応はない。
 よう寝てる、と無防備さにまたひとつ苦笑する。

 ここで、キスしても起きひんかな、と考えてしまったとしても健全な中学生としては
 いたしかたない話だろう。
 しかも相手は他の誰でもない想い人である。

 あかんあかん、寝てる相手に何しようとしてんねん。
 いやでもこれチャンスちゃう?
 起こしたもん俺。でも起きひんねんもん金ちゃん。

 少々というかかなり強引に責任を金太郎にスライドさせて白石はそっと顔を近づけた。
 止めてくれる仲間も不在。
 いや、今いられたらものすごく困るわけだが。


「金ちゃん…」

 最後通告はくちびるが触れるか触れないかのところで。
 吐息が触れ合う距離に心臓が跳ね上がりそうだ。くちびるにはまだ触れていない。
 触れない。
 でも、起きない。
 起きないのならば、と。


「ん…」


 触れたくちびるはびっくりするほどやわらかかった。
 そのままくちびるの感触を楽しんで顔を離す。


「…やってもうた……」


 白石はがっくりと肩を落として、そして今度は本格的に金太郎を起こしにかかった。


「金ちゃん、金ちゃん。こら、金太郎!」

「ん、んー……うにゃ…」

「かっ…!」


 かっわええ!
 しかし今は寝言の可愛らしさにもだえている場合ではない。
 寝ている子を相手にキスしてしまった罪悪感も手伝って、少々きつめに肩を揺さぶる。


「んん…しらいしぃ?」

「起きた?」

「起きたっ!たこ焼きー!」


 いったん目が覚めると、金太郎の活動は早い。
 寝起きはいいタイプなのだろう。
 寝ていたことなど感じさせもせず、床をぴょんと蹴って立ち上がった金太郎は白石の
 右手を引いた。


「早く、早く。たこ焼きたこ焼き、たこ焼きやー!」

「分かった。分かったから、たこ焼きは逃げへんて」


 聞く耳など持たぬとばかりに金太郎が白石の手を引いて歩く。
 男子中学生が手をつないで歩く、という構図ははたから見たらかなり不自然なの
 かもしれないが、体格的に大人と子どもというのも相俟ってかそこまで注目は
 されない。
 されたとしても、「ああ四天宝寺の子か。なんかのネタかなぁ」くらいで済む
 はずだ。

 たこ焼き屋にたどり着き、「食べ歩きはアカン」としつけに厳しいお母さんの
 ようなことを白石が言うので金太郎は大人しく店内の席についた。
 白石が言うには、食べ歩きが許されるのは縁日かお祭りの屋台のみ、らしい。


「めっちゃうまいでー!白石っ、おおきに!」


 上機嫌でにっこにこの金太郎の姿を見れば、彼にたこ焼きを食べさせてやりたい
 なぁとおごってしまう千歳の気持ちも分かるというものだ。
 千歳は可愛いもの好きなのだ。小さいともなると余計だろう。
 謙也も「一番オゴリ甲斐があるのは金ちゃん」と言っていた。
 こうもしあわせそうに食べられたらオゴリ甲斐もあるだろう。食べられるたこ焼きも
 本望に違いない。


「白石は食べへんの?」

「あ、あー…俺はいいねん。あんま腹減ってへんし。金ちゃん食べ」


 部活のあとだ、腹減ってないというのは大嘘だが、食べる気があまりしないのは
 本当だった。
 冷静になってみると自分はなんということをしたのか。
 ごめんな金ちゃん。
 欲望に負けた自分が情けなくて仕方ない。
 たこ焼きで帳消しになるとは思わないが、せめてもの罪滅ぼしだ。


「白石ぃ!」


 知らず俯いていた白石は、はっと顔を上げた。


「口あけぇ」

「え?」

「これ食べて元気出し!ほら、あーん、や!ふぅふぅしたから大丈夫やであつないで」

「!!」


 なっ、と笑う顔に思わず見惚れてしまう。
 四天宝寺テニス部唯一の一年生レギュラーということもあって、金太郎はいつも
 甘やかされる立場だ。本人もそれを甘受している。
 しかし、意外とひとの気持ちに聡くて面倒見のいい金太郎は、誰かが落ち込んでいる
 ことに気づくとすぐに飛んでいく。
 そして彼なりに伝えてくれるのだ。
 大丈夫やで、心配あらへん。
 小さい体で力強いメッセージ。
 まるでヒーローだ。

 金ちゃんはほんまかっこいいなぁ、と呟くと、きょとんとした金太郎が「何言って
 んねん、白石のほうがかっこいいで!」と笑った。
 裏表のない言葉に赤面するしかない。
 再度俯いた白石に、金太郎が呆れたように言った。


「白石ぃ、早う」

 金太郎の手には爪楊枝。その先には大きなたこ焼き。

「あー………おおきに、いただきます」


 罪滅ぼし、失敗。
 金太郎が食べさせてくれたたこ焼きは、いつもの何倍も美味しかった。



───

 寝顔を隠し撮り、寝てるのをいいことにちゅーって白石おまえ…と書いてて思いました。
 も、申し訳ない!