繰り返す、これは訓練ではない



 金太郎が消えた。
 比喩ではなく、この新幹線の中から。

 富士山見えた!東京や!などと言って飛び出して行ったらしい。

 静岡で。


「なんで誰も止めへんかったんや」


 白石が言った。
 咎める口調になるのを止められない。

 険しい顔の白石を見て、部員達はばつの悪そうな顔をした。
 直後、わっと口を開いた。


「いやてっきり白石が見てると思ってて」

「せや、白石は金太郎さんの係やんか」

「そうやそうや、お前金ちゃん係やん」

「蔵リンしか金太郎さん止められへんしねぇ」


 ようするに白石に責任があると言いたいらしい。
 俺はトイレにも行ったらあかんのか、と言い返すと、さらにわぁわぁと
 やかましく言い募り始める。


「席を離れるならそれ相応の対応策を練ってから行くべきやったんちゃうんか」

「よし分かった、その対応策とやらを具体的に聞かせてもらおか」

「そういう問題ちゃうやろ、トイレ行くにも金太郎さん連れて行くくらいの
 根性みせんかい部長やったら」

「おかしいやろ。トイレに連れて行くて」

「つぅか富士山見えたから東京ておかしいでしょ、どう考えても」

「それは…、そうやな」

「お前金ちゃんの家庭教師してたんやろ。それくらい教えときや」

「一年の地理はな、世界地図覚えるとこからや。針葉樹林の場所とかは覚え
 させたで!」

「金太郎はんのレベルやと近畿二府四県レベルかと…」

「いやあの子二府四県言えるかどうかあやしいな」


 いちいち律儀に対応してやっていた白石だが、小春がふと「そういえば、座席
 からして離れてたやん」とつぶやいたのが耳に入ってぎくりと体を強張らせた。


「そうやん!今日に限ってなんで金ちゃんと離れとんねん」


 なんでやなんでやと騒ぎ始められて痛くなってきた頭を白石が押さえたとき、
 それを上回る大声が東京行きひかり五号車に響き渡った。


「うるさいよキミたちぃぃ!!ここどこやと思てんねん!新幹線!新幹線の中!
 小学生ちゃうんやから静かにしとくくらいできんのかぁぁ!」

「オサムちゃんが一番うるさいです」

「健坊律儀なツッコミありがとう!一コケシやろ!」

「いりません」

「なんでやねんー!!やっぱ今反抗期?!」


 監督が混じってさらにうるさくなった新幹線内、注目度数もピークに達しつつ
 ある。
 白石は天を仰いだ。
 見えるのは新幹線の天井ばかり。


「いい加減静かにし。金太郎のことは心配やけどひとまず置いといて、全員
 席に着くんや!」


 ぴしゃりと言い切ると、途端に車内が静まり返る。
 気まずそうに顔を見合わせて自分の座席へと戻っていく。はー、と大きく
 息を吐き出して、白石も座席へと腰を落ち着けた。
 二人席、隣は小石川だ。


「白石、金ちゃんは大丈夫やろか」


 顔は平静そのものだが、声がおろおろしている。
 普段から物事を冷静に見る力がある小石川だが、こと四天宝寺の核弾頭(
 小さい方)であり超問題児(と書いてスーパーゴンタクレと読む)である
 金太郎のことになるとまた別のようだった。
 どこでどんな問題を起こしているのか、だけを心配しているわけではない。
 問題を起こし、はたまた巻き込まれ、そしてさらに騒ぎを大きくする才能は
 四天宝寺でもずば抜けている金太郎だ。
 彼が心底困っている様などあまり想像できないが、こうも目が届かない処に
 行かれてしまうと心配せずにはいられない。


「行き先は東京やて分かってるんやから、走ってでも到着はするやろうけど
 その道中で何があるかが心配やな」


 その運動神経と運動能力の高さも折り紙つきなだけに、交通手段がなくとも
 目的地に到着することは白石とて疑っていない。迷子スキルも折り紙つきだが、
 そこは人に尋ねるなり何なりするはずだ。
 金太郎のコミュニケーション力というものを白石はずいぶん買っている。
 ただ持ち合わせがないだろうということと(電話して金太郎の母親に用意して
 もらったバッグは彼の席に残っていた)持ち物はテニスラケットのみ、という
 ことが心配の種である。
 いくら金太郎でも飲まず食わずで静岡〜東京間を走ってくることはできない
 だろう。


「あの子毒手なんて信じるくらいやのに…誰かに騙されて誘拐でもされてたら…」

「ゆ、誘拐…」


 小石川の想像をまさか、と思いつつも、もしかしたら、と可能性を探して
 しまうのはやはり彼が大事だからだ。
 ああ、目を離すんじゃなかった。
 いつも通り、隣の席にしておけばよかったのだ。


(最悪や、俺)


 財前とともに大阪駅に現れた金太郎は、けろりとした顔で「白石、おはよー
 さん!」と笑って挨拶した。
 昨日の今日で、切り替えの早いこと。

 金太郎にとって寝たら忘れる程度のことだったのか、はたまた犬に噛まれた
 と思って忘れることにしたのか。
 あの時のあの反応は単に驚いただけで実はなんとも思っていなかったとか。
 金太郎の思考回路については考えても無駄、という思いが強かっただけに
 彼の真意を探れなかった。
 可愛くて、という以上に、今ならキスしても大丈夫かも、と自惚れた勢い
 だけを頼りにくちづけた自分を白石は恨んだ。
 だって、と誰にでもなく言い訳したくなる。


(俺のことなんとも思ってなかったらあんな顔せぇへんやん)


 好きかな。俺のこと。
 好きなんかな。

 そう思ってしまったが最後、体が勝手に。
 キスしたい、してもいいかも、という衝動に後押しされてしまったのだ。


(あー、でもやわらかかった、なぁ…)


 はっ、と白石はそこで思考を止めた。
 俺はなんてやましいことを!金太郎の一大事に!
 頭をふるりと一振りすると、眉をハの字にした小石川が慰めるように、
 そうやな、おれなんかより白石の方がよっぽど金ちゃんのこと心配やんな、
 と気遣うような口調で言った。


「いや、そんな…」

「大事にしとるもんな。いくら部長でも可愛い思えへんかったら面倒
 みきれんよな」

「う…」


 うんうん、と勝手に納得している副部長の言葉に、さらにずどんと
 後悔の念が押し寄せる。

 そうなんです大事にしとるんです。
 でもそんな大事なあの子に俺はなんてことを!
 好きとも告げず、くちびるだけ奪うなんて順序が逆もいいところだ。

 部長と副部長は長いため息をついた。
 いつもの賑やかな雰囲気はどこへやら、どよんと澱んだ空気を纏わせて
 四天宝寺中学テニス部は東京へと到着したのだった。




 金太郎の消息が知れたのはその日の晩だった。
 白石の携帯に金太郎の自宅から電話が入ったのだ。


『白石君、ごめんなぁ!』


 金太郎と同じくらい元気な第一声だった。
 携帯電話を所持していない金太郎は、どうやら唯一電話番号を覚えている
 自宅に電話をかけたらしい。
 以前、追試のために勉強を見てやるという名目で互いの家を行き来していた
 時に、もし何かあったらと白石は自分の携帯電話の番号を伝えていた。
 それが幸いして連絡をもらえたというわけだった。


『うちの子、また迷惑かけて!ほんまちっちゃい頃から手ぇ離すと一目散に
 どっか行ってまうんよ。今度から首に縄でもつけといたってええから』

「いえ、俺が目を離したのが悪かったんです。ほんまにすみません!」

『えーのえーの。気にせんといて。運だけはいいから、なんでも自転車で
 日本一周しようとしてる大学生の兄ちゃんに東京まで案内してもらえる
 って。宿代まで出してくれてるっていうんやから。そこまでしてもうて
 悪いけど、ええ人つかまえられて良かったわぁ』

「そうなんですか…」

『そーそー、アホやけど運と運動神経だけは良く産んどいたから!』


 あっけらかんと言われて返答に困る。
 金太郎の母親は、一目で彼の母親だと分かるくらいよく似ていたが、
 中身もどうやら似ているらしい。

「そうですか」


『そうなんよー。あの子ちっちゃいときからずっとあんな調子でね』


 それから5分ほど世間話をまじえた通話の最後に、困らせると思うけど
 面倒みたってね、と締めて金太郎の母親は通話を切った。
 はい、と返事をする前に言うことを言い切ったらしい彼女はぷつんと
 通話終了のボタンを押したらしい。
 そのマイペースさはやはり金太郎に通ずるところがある。


「似たもん親子…」


 切られた携帯を見ながらつぶやくと、その様子を見守っていたレギュラー陣が
 わっと一気に話しかけてくる。


「金ちゃん、無事なんやな?!」

「どこにおるんや!」

「迷子にはなってへんのか?!」

「樹海に迷い込んだりしてへんでしょうね」

「今から言う、説明するからちょっと黙り!金太郎は無事や。東京まで案内して
 くれるひとがおるって。そのひとが面倒見てくれてるみたいやわ」


 全員がほぅ、と安堵の息を吐き出す。
 さすが金ちゃん、どこでも味方見つけるなぁ、と謙也が感心したように言った。
 ちくりと胸が痛んだのは、金太郎は俺がいなくても大丈夫なのだとその言葉に
 思わされたからか。
 早く寝ろ、と部員達に促したものの、白石はあまりよく眠ることができなかった。




 金太郎が合流したのは──というより、四天宝寺のレギュラー陣が金太郎を
 見つけたのは準決勝からの試合会場であるアリーナコートだった。
 何かを暗示させるように、コートを挟んで金太郎と彼の言う「コシマエ」は
 対峙している。
 同い年のスーパールーキー。
 越前は一人で様子見に来ていたようだが、現れた大阪代表を歯牙にかける
 様子もなく(噂どおりの唯我独尊ぶりだ)颯爽と去って行った。
 次にコートで会うとしたら、そんな真似などできなくなっているはずだ。
 四天宝寺テニス部のメンバーは自分たちの勝ちを疑っていない。
 勝ったモン勝ち。
 当然、西と東のスーパールーキー対決も金太郎に軍配が上がると信じきって
 いる。


「あれぇ、そういやなんでみんなここにおるん?」


 コシマエを見送ってから、思い出したように金太郎が言った。
 謙也はじめレギュラー陣ががくりと肩を落とす。
 こういう大物ぶりも頼もしいものだが、金太郎はまだ小さい一年生であり、
 テニス部で一番下の後輩だ。
 期待と心配を一身に受けている後輩は、そんなことに気づきもせず常に
 あっけらかんとしていて陰湿さとは無縁、陰にこもることがなく、そこが
 長所ではある。
 しかし静岡で勝手に新幹線を飛び降り、散々心配させておいてこの態度。
 怒りたい気持ちと実際姿を見て安心した気持ちが半々だ。
 結局謙也は笑って金太郎の頭を撫でた。


「あんま心配させんといてや。白石がハゲるで」


 口では「そんな心配せんでも大丈夫やろ、金ちゃんやで」などと言って
 いたが、そういう白石が一番心配していたことなど謙也はお見通しである。
 昨夜だって何度も寝返りを打っていたことを知っている。
 その音が気になってなかなか寝付けなかったからだ。
 それどころか、昨日は宿の大部屋で布団を並べての雑魚寝だったから謙也
 のみならず全員がお見通しであること請け合いである。


「………白石は?」

「部長と副部長は抽選会に行っとる」

「…怒ってた?」


 先ほどまでのからっとした態度とは一転して、おずおずと金太郎が問い
 かけた。
 主語が抜け落ちているが、白石だけを指していることを謙也は察した。


「心配しとった」

「……ふぅーん」


 金太郎は興味なさそうにくちびるをとがらせた。
 おや、と謙也は思った。
 この反応は謙也の予想のどれとも違う。
 違和感の正体を掴み取る前に、金太郎はぱっと表情を変えて、それより
 ワイお腹空いたわぁ、と甘えをたっぷり含んだ声と顔で謙也を見上げた。


「しゃーないなぁ。抽選会はもうちょっとかかりそうやし、軽めになんか
 食べに行こか」

「良かね」

「金太郎さんも無事に帰ってきたしな」

「ねぇ金太郎さん、途中何かおもろいことなかったん?」

「いっぱいあったでー!まずな、平ちゃんが…」


 金太郎が嬉々として道中のことを語り始める。
 金太郎にとっては少し道草してきた程度の話かもしれないが、静岡から
 東京まで走ってくるなど、一般の中学生にすればちょっとした冒険だ。

 一気に賑やかさと活気が戻り、アリーナコートに笑い声が反響した。






───

 金ちゃんのひとの懐に入り込む才能は、正直野生のパワーよりもすごいと思います。



20111007