テニスボールが暗くなった空に溶け込んで見えなくなってきた。
この時期の日の暮れは遅い。
たぶんもう19時半くらいだ。
白石は顎まで伝ってきた汗を右手のリストバンドで拭うと「今日はここまでや」と
言った。
「ええー、もう終わり?!」
「もうボールもよう見えんやろ。終わり終わり」
「ワイは見えるもん」
「俺は生憎金ちゃんほど目ぇ良くないねん。もう見えん」
だから、終わり。
明日は全国大会に向かって出発する。
このコートで練習するのも最後やな、と居残りを決め込んだ白石に打ち合いを
申し込んできたのは金太郎だった。
白石の居残り練習は1年のときから周知の事実だった。
部長になってからも決して慢心せず、一人でコートに残る彼の邪魔はしないでおこうと
いう暗黙の了解で誰も打ち合いしようなどと提案したことはなかったのだが、金太郎の
申し出を白石は笑顔で受け入れた。
散々打ち合って、空ももう暗い。
ライトを使えばもうしばらくは続けられるけれど、白石はそうはしなかった。
ライトを点灯させる手続きは少しばかり面倒で、いくらテニス部部長の白石と言えど
その手順を省くわけにはいかない。
ラケットを使ってボールを拾い始めると、つまらなさそうにくちびるをとがらせた
金太郎も渋々とそれに従う。
しかしいつまでも不貞腐れていないのが金太郎の長所で、ぱっと表情を変えて
なー、と白石に呼びかけた。
「白石ぃ、全国ってごっついやついっぱいおるんかなぁ」
「たぶんゴロゴロしとるで」
「くぅぅ〜っ、楽しみやぁ!!」
金太郎はどこまでも強い好敵手を求める。
ごついやつらと会いたい、戦いたい。彼は純粋に勝負を楽しむ。
結果はどうあれ、勝負そのものを楽しむのだ。
そこが俺とは違う、と白石はいつも思う。
強いやつと会いたい、戦いたい。そして戦って勝ちたい。
白石は勝負のその先にある勝利に価値を見出す。
金太郎のテニスに対する姿勢は良いと思うが、勝負の結果よりもその過程を
重視するところが少しだけもどかしい。
もっと勝ちに貪欲になってもらいたい、と思うのは部長としての欲である。
白石自身としてはそのままのスタンスを保ち続けて欲しい、とも思う。
「謙也が言うとったやん。コシマエ!早よう会いたいわー」
せやな、と白石は同意する。
何しろ金太郎と張り合えるテニスプレイヤーの少ないこと。
同学年になるとこの関西にはいなかった。同学年どころか最高学年であっても
金太郎に敵わないプレイヤーもいるのだ。
そんな彼が同学年のものごっついプレイヤーに寄せる期待は大きい。
(青学、な)
試合のビデオは何度か見ている。
青学と当たることになれば、自分の相手はおそらく青学のナンバー2。
天才と名高い不二になるだろう。
そして金太郎は。
(越前か)
見たところ、技量は越前が上。
運動量と爆発力は金太郎が上。
総合的に見て金太郎が上だ、と白石は推測している。部長としての欲目も
たぶんに含まれているものだったが。
「片付け、終わりっ」
折りたたんだネットを倉庫にしまいこんだ金太郎が元気よく言った。
「よっしゃ、じゃあ着替えて帰るで。金ちゃん」
「うん!」
部室に戻ってさっさと着替えを済ませる。
「金ちゃん、明日の集合時間分かってるか?」
「分かってるー!光が迎えにきてくれるもん。なー、白石ぃ、ワイ新幹線乗んの
初めてやねん!めっちゃ楽しみやー」
金太郎は大きな瞳をきらきらと輝かせながら言う。
完全に旅行を楽しみにしている子どもの顔だ。
「すぐ着く?東京」
「せやな、3時間くらいで着くかな」
楽しみー、とわくわくしているのは構わないし、旅行気分なのも別にいい。
ここ四天宝寺中学テニス部員ならば、それくらいじゃないと困るくらいだ。
ただ、金太郎はそれに伴う準備をちゃんとしているのだろうか。
勝ち進めば進むほど滞在期間は長くなる。着替えやらなにやら、とかくものが
要りようだ。
「金ちゃん」
「新幹線って速いんやなぁ!白石、ワイ一番前乗りたい!」
「もう5号車の乗車券取ってあるからそれは無理。それより金ちゃん、」
「おやつ何持って行こかなぁ。白石ぃ、バナナはおやつに入りますかっ」
「皮は入らへんけど実は入る!金ちゃん、おやつより大事なもんがあるやろ」
「うん!お弁当なー、おかーさんに言って好きなもんいっぱい入れてもらうねん」
旅行どころか完全に遠足気分である。
「金太郎、話ちゃんと聞かな毒手やで!」
金太郎と視線を合わせるために白石は身をかがめた。
そのままぐいと金太郎の細い肩をつかんで振り向かせようとする前に金太郎が、あ、
なぁ白石!と言いながら勢いよく振り返る。
がつん、と、どん、が合わさったような音がした。
あだ!と二人の声が見事にそろう。
「ぁいっ……たー!!いたい!白石のアホぉ!」
「あいたた…金太郎が急に振り向くからやろ!」
二人とも押さえているのはくちびるだ。
顔を見合わせて、顔色が変わるのも同時だった。
しかしじたじたと落ち着きなく俯いたり横を向いたりする金太郎よりも、当然の
ように白石の方が余裕を取り戻すのは早かった。
事故とはいえ、キスはキス。
しかもたぶん絶対金太郎は初めてのはずだ。
などと考えて恥ずかしいやらうれしいやら。
慌てているらしい金太郎が可愛くて、苦笑まじりに微笑んだ。
「キスしてもうたなぁ、金ちゃん」
「きっ…」
ぷっくりした頬を真っ赤に染めた金太郎が言葉に詰まった。
意外すぎる反応に驚き半分、うれしさ半分。
(うわ、何もうちょっとかわええ!)
こんなくちびるがぶつかっただけという事故まがいのキスなのに、そんな風な
反応を返されてしまうと困ってしまう。
困ると同時に期待もしてしまう。
嫌われてはいないとは思っていた。けど。
「こ、こんなんっ、キスとちゃう!」
「せやな」
否定を肯定されて、金太郎がほっとしたような顔を浮かべたのは一瞬だけだった。
「キスっつーのはこういうもんやもんな」
ちゅ、と漫画のような効果音を聞いた。
キスされた。白石に。
理解すると同時に金太郎は白石を押し返した。
「あ、あ、アホちゃうっ!」
かわいそうなくらい真っ赤になった金太郎が身を翻した。
力任せに扉を押し開けて逃げるみたいに駆けて行く。
扉が加えられた不当な圧力に対して文句を言うようにぎぃぎぃと鳴った。
「なんその反応…」
部室に一人残されて顔を赤くした白石のつぶやきに、扉がばたんと答えた。
金曜午後のロマンス
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4/1生まれのひとは恋愛に関しては奥手だって書いてあったから!
20110925