「疲れたぁ、くたくたや!」


 珍しく金太郎がそんなことを言った。
 その小さな体に見合わないほどの大きなエネルギーを溜め込んでいる彼は
 あまり疲れというものを見せないし口にも出さない。
 というより、常に何事も楽しむ姿勢だから(ようするに子どもだ)全然
 疲れない。


 ただ、彼にも楽しめないものがあった。
 勉強だ。



 基本的に『好きなことだけしてたい』金太郎にとって、勉強はその正反対に
 位置するものだ。
 学校は好きだ。友だちがいて、先生がいて、先輩がいる。
 学校は楽しい。休み時間にわいわい騒いで、お弁当を皆で食べて、放課後には
 テニスができる。
 ただ、学校に必要不可欠な『勉学』という要素を金太郎はどうしても好きに
 なれない。
 難しい。理解できない。楽しくない。
 イコール、したくない。
 そんな金太郎は中学に入学して最初の中間試験で5科目中4科目赤点を取った。
 全科目赤点じゃなかったのが奇跡、と財前は言う。
 とにかく、赤点だらけの金太郎には、見事に補習と追試が課せられることと
 なった。
 しかし、やる気のない彼にいくら補習を受けさせたところで身につくはずも
 ない。
 担任の教師からテニス部顧問のオサムへヘルプが入るのは早かった。
 いわく「遠山君が勉学に打ち込めないのはテニスがしたいがため。なので
 なんとかしてください」。
 ものすごい責任転嫁だが、間違いなく事実なのでオサムとしても黙って頷く
 しかない。
 だがオサムとて勉学から離れて久しい。
 中学校一年生とはいえ、いや、中学一年生だからこそナメてかかって下手に
 教えてしまうのはまずい。
 何事も基本が大事。それはテニスでも勉強でも同じことだ。
 さて、ここでテニス部顧問のオサムが取る行動としては一つしかない。
 困った時の部長頼み。「お前は部長やろ。部員のことくらいなんとかして
 くれ頼む!」というわけである。


「あ、でもお前は部の取りまとめで忙しいか。そんなら健ちゃんに頼めるか?
 健ちゃんも賢いもんな」

 と、オサムはそんな風に言ったが白石は否と首を横に振った。


「いや、俺が面倒見るわ。大人しく言うこときかせられんの俺だけやしな」

「…大丈夫か?」

「何が」

「見たとこ、金太郎お前のこと苦手そうやったけど」


 完璧を求めるがゆえプライドの高い白石には酷かと思ったがオサムは
 正直に言った。
 しかし白石の反応は、オサムの予想のどれとも違っていた。


「それがな、オサムちゃん!俺、あの子と仲良くなってん!」


 らしくもなく嬉しそうな顔で言われて黙り込んだのはオサムの方だった。
 白石はオサムの反応を気にすることもなく話を続ける。


「もうな、懐かんかった子猫がやっと懐いてくれたみたいでなー」


 でれっと破顔する白石を見て(おまけに金太郎を子猫呼ばわり)「うわっ
 きっしょ!」とオサムが思ったかはさておき、「じゃあ任せるわ」と言うに
 留めた監督は大人だ。



 そんなわけで、おハチがまわってきた白石は期間限定で金太郎の家庭教師に
 なった。
 追試までの期限は2週間ちょうど。
 図書室で、どちらかの自宅で、部活後の部室で、と金太郎の勉強は場所を
 選ばず展開された。
 「イヤや!どうせわからへんもん。ワイ、アホやし」と頑なだった金太郎も
 お菓子やらたこ焼きの食べ物でつられ、「金ちゃんエライなぁ」と少しの
 ことで褒めてくれるテニス部のメンバーに励まされ、ちょっとずつ意欲が
 わいてきたようだ。
 協力してくれたテニス部のメンバー、互いの家族、そして白石の努力の
 賜物である。


「なぁ白石ぃ、どう?なー、どう?」


 部活のあと、部室には二人しかいない。
 金太郎は終えたばかりの数学の問題を採点している白石にそわそわと
 問いかける。


「ちょお待ち。イラチやなぁ金ちゃんは」

「もー、白石しゃべってんと早よう答え合わせして!」


 自分勝手な物言いに腹が立つどころか、遠慮がなくなってうれしいなんて
 末期もいいところだ。


「よっしゃ、採点できたで!」

「うぅ…どう?」


 白石の背中にまとわりついていた金太郎が自信なさそうに覗き込む。


「80点。よう頑張ったな金ちゃん、花丸や!」

「わっほーい!白石に花丸もろたぁ」


 そのまま背中に乗りかかるように抱きつかれて赤面する。
 まるで点数よりも花丸やと言ってもらえたことがうれしいみたいに金太郎が
 言うから。


「なー、しらいしぃ、花丸のほかにごほうび欲しい!」

「ごほうび?」

「小春が言うとったもん!ワイがんばったら白石がごほうびくれるって」


 金太郎の瞳がキラキラしているであろうことは見なくても分かった。


(こーはーるー!)


 援護射撃のつもりだろうか?
 しかしこれをどのように活かせというのか。白石にはやや難易度が高い
 フリである。


「せやなぁ、じゃあ金ちゃんも俺にごほうびくれるか?」

「えー?」

「えー、て…。俺、いい先生やろ?」

「うーん」


 確かに白石は今までで一番の先生だった。
 分からへん!とわめいても呆れるどころか熱心に根気よく分かるまで
 教えてくれた。
 この「分かるまで」がいかに難しいか、金太郎自身が一番よく知っている。
 金太郎は、うんと頷いた。
 背中にひっついたままの金太郎が頷いたとも知らず、白石は話を進める
 ことにする。


「で、金ちゃんは何が欲しいんや」

「ワイな、白石とたこ焼き食べたい!」


 予想を裏切らないというか、何と言うか。
 白石は笑って了承した。


「でも今日は1パックだけやで。本番の追試でもっと頑張ったら、たんと
 食わせたる」

「ほんまー?!」


 じゃあがんばる!と金太郎が請け負った。


「あ、なぁ。じゃあ白石は?」

「え?」

「白石のごほうびや!」


 自分から言うたんやん、とあきれた声で言われて、ついさっきそんな
 条件を出したな、と白石は思った。
 何しろ相手は金太郎だ。
 色よい返事がもらえるとは思っていなかった。


「なんでもええで!」


 ぎゅっとさらに体をひっつかせて顔をのぞきこんでくる。
 至近距離で赤くなった顔を見られたくなくて、白石はそうやなあなどと
 言いながらわざとあさっての方を向いた。
 顔が見えなくとも、シャツ越しの体温が照れくさい。


(アカンで。金太郎)


 何でもいいなんて、そんな安請け合いをしてはいけない。
 特に自分相手では。


「なんやな、エンリョせんでええで!」


 元気よく金太郎は続けたが、ふと不安そうな顔で白石をうかがう。


「……でも、追試で満点取ってこいとかはナシやで」

「あっはは、そんなこと言わん」


 それではごほうびがお願いに摩り替わってしまっている。
 まぁ、金太郎の中では似たようなものなのかもしれないが。


「じゃー何がええん?」


 なー、なー、と言いながら白石の肩を掴んでぐいぐいと前後に揺すり
 始める。
 逆らうことなく揺さぶられながら、白石はまた「うーん」と言った。
 迷う。
 迷っている。

 ごほうび。
 なんでもいい。

 ───迷った。


「………金ちゃんの追試が終わってから考えるわ」


 紛れもなく本心だった。
 ごほうびはぜひとも頂きたい。
 しかし選択の幅が広すぎてすぐには決められない。
 追試は2日後。
 あとまるまる2日もあれば良い案も浮かぶだろう、と踏んだわけだ。


(欲張りっちゅーか、欲深いっちゅーか…)


「ふーん」


 ぱっと、金太郎が背中から離れる。
 熱かった背中からすっと熱が引いていく。
 あれだけ引っ付いていたくせに、と恨みがましい気分になって金太郎を
 見やるとくちびるをとがらせた彼は面白くなさそうな顔をしていた。


「金太郎?」

「なに」

「何怒ってんの」

「怒ってへん」


 怒ってへん、とは言うものの、その眉を寄せたむっつりした顔では説得力など
 かけらもない。気分を害しているのは確実だ。


「金太郎」


 宥めるような声に、金太郎は眉を寄せて今度は困った顔になった。


「白石は」

「ん?」

「ほんまはごほうびなんかいらんねやろ」

「ええ?!」


 誤解も誤解、大誤解である。
 金太郎がくれる「ごほうび」だ。
 どこまで許されるのか、とか、どこまでなら嫌がられないか、とか、とにかく
 検討する要素が多すぎる。
 そもそも好意を伝えてすらいないのだ。
 白石が欲しい「ごほうび」はすべて付き合ってから、というのが大前提にくるもの
 ばかり。
 だから難しい。おまけに自分のやましさ加減に情けなさは倍増する。
 だから先送りしたかっただけなのだが、金太郎のとらえ方はまた別だったらしい。


「そんなことあらへん!めっちゃ欲しいで!」

「ウソばっか」

「嘘とちゃうって!何でそんなこと言うんや」

「もーええもん」

「金太郎!」


 ふいと顔をそむけられて、白石が焦った声を出す。
 焦ってはみても、金太郎が何をそこまで拗ねているのかさっぱり分からない。


(怒ってるんちゃうな、拗ねとるんか)


 拗ねていることが分かったところで、原因が分からなければ何の解決策も
 講じられない。
 白石は身をかがめて、金太郎と視線を合わせた。
 30センチ近く下にある金太郎の顔を覗き込む。


「なぁ、金ちゃん」

「なんやな」

「なんやなちゃうやろ。ちゃんと言うてくれな分からへん」

「もうええって言ったやん」

「きーんーたーろーうー」


 左手をかざして見せる。
 うぅ、と一気に金太郎がたじろいだ。


「ほ、包帯取るん?」

「金太郎がそんな聞き分けない態度取り続けるんやったらしゃあないわなぁ!」


 それでも、うぅぅ、と怯えている金太郎に業を煮やして白石はすっと包帯に
 手をかけた。
 一巻き、二巻き、とほどいていくとすぐに金太郎が音を上げる。


「だって!だって、すぐに決められへんかったやん、白石」

「…ごほうびを?」

「そんなに欲しないからやろ」


 これか、と白石は合点した。


「あんなぁ金ちゃん。誰も彼もが金ちゃんみたいにぱっと欲しいもん思いつける
 わけちゃうねんで。…ああ、違った。欲しいもんを一つに絞れるわけとちゃう
 ねんで」

「白石はいっぱい欲しいもんあんの?」


 大きな目で見つめられて今度は白石がたじろぐ番だった。
 金太郎の目には力がある。


「…あるよ」

「でもワイにできること、やで。そんなにあらへんと思うけど」

「それがあるねん」


 うーん、と金太郎は首を傾げる。
 正直、自分が白石にあげられるものとかしてあげられるものは少ないと思う。
 宿題も手伝えないし、たこ焼きもおごってあげられない(すでに金欠)。
 そのくらい白石も分かっているだろう。
 無駄の嫌いな白石だ。
 彼なりに欲しいものがたくさんあったとしても消去法でぱぱっと決められそうなものなのに。


「あ、じゃあその中で一番欲しいもん何?」

 ふと思いついたことを金太郎は口にした。
 たくさん欲しいものがあるとしても優先順位くらいあるだろうと思ったのだ。

「金太郎」

「え、なに?」


 呼びかけられたのだと思った。
 しかし、続けられる言葉はない。
 しばらく考えて、ああ、と金太郎は思い当たった。


「わかったー!白石の欲しいもんってワイ?」


 ずばりと言われて白石は顔を赤らめるしかない。


「白石って変わってるなぁ。たまにおかーさん『あんたなんかもういらん子や!』
 って言うんやで。ワイのこと」

 怒ったらめっちゃコワイねん。
 毒手と同じくらいコワイねんで!遠山家ではおかーさんに逆らったら生きて
 いかれへんねん。そういう家訓やっておとーさんが言ってるし。

 そんな風に続ける金太郎に、相槌を打つ以外何ができようか。
 しかも段々意味がずれてきているような。


「そ、そうなんや」

「だからべつにええで!」

「………え?」


 ずれてきた意味を修正したのは他でもない当人だった。


「ワイが欲しいんやったら、かまへんで」


 なんでもええって言ったんワイやしな。

 なんか、ものすごい衝撃発言を聞いた気が。
 あ、ええんやじゃあもろとこかな、と思考が落ち着きかけたところで白石は
 正気を取り戻した。


「っちょ、待ち!待つんや金ちゃん!もっと自分を大事にせんと…くれ言われて
 あげてたら身がもたんで!」

「なんや、やっぱりいらんの?」


 呆れたような声色に理不尽なものを感じつつ、しかしここでいらないと言えば
 どうなるのか。
 金太郎はまた「はっきりせぇ」と拗ねるだろう。
 しかしそれより大変なことがひとつある。


(万が一他の誰かが欲しいって言ったら簡単にええでとか言うんちゃうこの子!)


 その危険性大である。大問題だ。
 絶対に金太郎は意味を分かっていない。


「い、いるいる!いるで!」

「じゃあもぉそれでええやん」


 答えがはっきりしてすっきりした彼はもうこの問答に飽きてきたらしい。
 ふわぁ、とあくびまでしている。
 出てきた涙を右手でこすりながら、ふと思いあたったように金太郎は言った。


「そんでワイは何したらええん」


(ですよねー!)


 100パーセント意味が分かっていないと思っていたけど、けど!
 金太郎が欲しい、ということは分かったけど、それで?と彼は訊いているわけだ。
 それだけで意味を察して欲しい。
 というか、欲しがるイコール好きだから、とかそういう考えに及んでもらいたい。

(…まぁ、無理な注文やろな)


 何しろ相手は金太郎だ。
 一筋縄ではいかないことは目に見えている。


「……えーと…」


 なんて返そうか、と真面目に考えて、白石は笑ってしまった。
 この温度差と距離感をどう近づければいいのやら。


「そうやなぁ、とりあえず今日のところは俺にたこ焼きおごられといたら
 ええんちゃうかな」

「ん!わかった!」


 元気よく頷いて、ノートやら教科書を散らかしたままの机に手を伸ばす。
 無造作に鞄にそれらを放り込みながら、呪文のように公式を唱えている。


「白石、行こ!」


 鞄を肩にかけながら金太郎が言う。
 はいはい、と白石は金太郎に従って部室から出た。戸締りも忘れない。


(もうしばらくは、このままでええか)


 疲れたぁ、くたくたや!と笑いながら白石を見上げる目は、言葉とは逆で
 きらきらと楽しそうに輝いている。

(褒めてほしいんやな)

 金太郎の言外の言葉なんて自分にはすぐに分かるのに。
 なんでこの子は分からんかなぁ、と苦笑する。

 沈みかけの夕日に照らされて、いっそうつやりとしている赤みの強い髪の毛をやさしく
 撫でてやると猫のように目を細めた。


「まぁ、ええか」

「なに?」

「なんもない」


 ほら行くで、と白石は金太郎の華奢な背中を押してやる。
 もうしばらくは。




 
このまま、この距離で。







───

 終わり、です!
 10題にお付き合いいただきありがとうございました!!



 …しかしやっぱり白→金に終始してしまい(だって好きだから!)白金サイトなのに
 これはいかん!と思ったので続きのお題を探してきました。
 さすがに51題もあれば二人の仲も進展させられるだろう!と!白石がんばって!
 なので引き続きお題白金にお付き合いいただければうれしいです。

20110803